境内案内
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01
総門Somon
相国寺の門は、総門とそれに並んだ勅使門(ちょくしもん)があります。総門が日常の門であるのに対し、勅使門は特別のときに開けられる門です。創建当時は室町一条にあり、再建は文正元年(1466)三月に落成し、其の十日義政が始めて通行したといわれています。その後、天明の大火などで焼失と再建を繰り返し、現在の建物は寛政九年(1797)第113世梅荘和尚により復興されました。 平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
02
勅使門Chokushimon
禅宗の大寺院には正面に総門と並んでもう一つの門を造る例が多いのですが、この勅使門(ちょくしもん)もそうした一つで、総門の西にこれと並んで立っています。総門が日常の通用門であるのに対して、平常は閉じられ、勅使門あるいは御幸門とよばれています。
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03
天界橋Tenkaikyo
放生池に架かる石橋です。「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名づけられました。天文二十年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まっています。現在の橋材はその当時の旧材です。
04
三門礎石Sanmonsoseki
三門(さんもん)跡には数個の礎石が今なお残されており、天明八年(1788)の大火の後再建されていません。
05
玉龍院Gyokuryuin
玉龍院は相国寺第五世雲溪和尚を開祖とします。雲溪和尚は相国寺第四世太清和尚の法弟であり、ともに雪村友梅禅師の法系です。足利義満が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(相国寺第四世住持)を相国寺に迎請するため、その禅室として創設されました。
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06
光源院Kogenin
光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で、応永二十八年(1421)に創建され、広徳軒と称しました。師は二世普明国師に法を嗣ぎ、同年八月十二日入寺、同三十二年(1425)三月十七日示寂。永禄八年(1565)足利義輝が死去してその菩提寺となり、義輝の院号により光源院と改称します。
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07
林光院Rinkoin
林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
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08
普廣院Fukoin
創建当初は乾徳院と呼ばれました。夢窓国師の法を嗣ぎ相国寺第九世となった性眞圓智禅師観中和尚は、足利義満の帰依厚く、山内に退休の地と禅室を与えられ、ここを塔所として創立されました。嘉吉元年(1441)足利六代将軍義教薨じ、普廣院殿と号し、当院を影堂(位牌所)と定め、法号に因んで普廣院と改号しました。
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09
養源院Yogenin
開祖を曇仲道芳(どんちゅうどうぼう)といいます。幼くして常光国師・空谷明応に参じ、空谷和尚の相国寺住持に際して焼香侍者を、また結制には問禅の禅客を勤めました。長じて国師の法を嗣ぎますが、座元以上の法階を望まず、終生黒衣で通します。ことに詩文に優れ足利義満、義持父子の寵遇を受けました。やがて、相国寺常徳院内に養源軒を設け、退隠したのが養源院の始まりです。
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10
仏殿跡Butsudenato
天文20年(1551)の石橋の乱で焼け落ちて以来、再建されず、今や礎石だけが残っています。
11
大通院Daitsuin
大通院は、元伏見にあった大光明寺(現在相国寺塔頭)の境内に、伏見宮始祖大通院宮栄仁親王の菩提所として建てられたものです。応永23年(1416)栄仁親王ご逝去の後、当時伏見にあった大光明寺の境内に、親王の謚(おくりな)に因んで「大通院」の名称で寺が創建され、開祖は夢窓国師とされました。
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12
弁天社Bentensya
開山堂の南西にあり、南面して建つ春日造桟瓦葺の小社で、弁財天を祀っています。
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13
洪音楼Koonro
鐘楼(しょうろう)は一名「洪音楼」といいます。天明の火災で焼け、寛政元年(1789)四月古鐘を買って仮楼にかけ、天保十四年(1843)現在の層楼を築成しました。 「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のものです。
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14
宗旦稲荷社Sotaninariyashiro
楼の北に祀られている宗旦稲荷。ここには宗旦狐の故事が伝わっています。江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいました。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578-1658)に姿を変え、時には雲水にまじり坐禅をくみ、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していました。
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15
瑞春院Zuisyunin
京都御所の北側に位置する相国寺山内の塔頭瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(タイセイソウイ)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(キセンシュウショウ)が文明年間(1484年)に創設するも、三百余年後の天明年間に寺宇は焼失。
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16
経蔵Kyozo
経蔵は、天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立されました。第120世盈冲和尚の寄進により、宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきました。
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後水尾帝髪歯塚Gomizunooteihatsushizuka
後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。
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法堂Hatto
法堂(ハットウ)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のものです。正面28.72m、側面22.80mにして堂々たるものです。
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鎮守Chinju
創立当時は今出川通りの北にあって、今の御所八幡町はその旧跡といいます。義満が男山八幡から御神体を奉迎した時は男山八幡から当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたといいます。
20
天響楼Tenkyouro
「天響楼(てんきょうろう)」は、平成二十二年(2011)夏に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼(しょうろう)です。この鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。
21
浴室Yokushitsu
相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられます。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成十四年(2002)六月に復元修復されました。 宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名です。
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22
方丈Hojo
禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。
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23
大光明寺Daikomyoji
大光明寺は相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりであり、皇后の法号大光明院を寺号としました。
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長得院Chotokuin
相国寺第十九世佛慧正續国師鄂隠和尚の禅室、塔所であり、はじめは大幢院と号しました。師は絶海和尚に従い参究します。至徳年間(1384〜87)明国に遊び、諸山の名宿に歴参すること十余年、帰朝して絶海の法を嗣ぎ、等持寺を経て応永十七年(1410)相国寺に入寺(第十九世)しました。
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庫裏 「香積院」Kuri Kojakuin
禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的です。
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豊光寺Hokoji
相国寺第九十二世西笑承兌和尚が慶長三年(1598)八月、豊臣秀吉逝去の後、その追善のため豊光寺を創立しました。師は天正十二年(1584)二月十九日、相国寺入寺。慶長十二年(1607)七月、徳川家康は豊光寺を訪問していますが、同年十二月二十七日、西笑和尚示寂。豊光寺は以後、漸次頽廃に及び、天明八年(1788)の大火で焼失し、廃絶の運命にありました。
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開山堂庭園Kaizandoteien
開山堂はその名のように開山夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところです。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されましたが、又天明八年(1788)天明の大火で焼失します。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったものです。
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眞如寺Shinnyoji
鎌倉時代、京都尼五山の一つ景愛寺の住持であった無着如大尼和尚は晩年、嗣法の師、鎌倉円覚寺の開山・佛光国師(無学祖元禅師)の遺爪髪を祀るため、衣笠山山麓に墓所を造り正脈庵(しょうみゃくあん)と号し、終生墓所を守りました。
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慈照院Jishoin
応永12年(1405)前後、在中禅師(大本山相国寺住持第13世)の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は慈照院と改号されました。
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慈雲院Jiunin
長禄年間創建、本尊は釋迦牟尼佛。開祖は、相国寺第四十二世勅諡興宗明教禅師(瑞溪周鳳和尚)です。師は道学兼備の碩匠にして多大の著書があり、天皇の崇敬と幕府の信望とを一身に集めました。
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法然水Hounensui
相国寺創立以前の事、浄土宗の開祖法然上人は加茂明神を尊崇されて功徳院神宮寺に住し、これより加茂社に参詣されました。この神宮寺には美しく澄みわたった庭池があり、法然上人自身歌にその澄澈(ちょうてつ)の様を詠まれています。後に神宮寺の旧跡に相国寺が建立され池は現在、上人が閼伽水(あかすい)を汲んだといわれる井戸として、記念碑と共に法然水(ほうねんすい)の名で北門前の町に残っています。
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勅使門Chokushimon
禅宗の大寺院には正面に総門と並んでもう一つの門を造る例が多いのですが、この勅使門(ちょくしもん)もそうした一つで、総門の西にこれと並んで立っています。総門が日常の通用門であるのに対して、平常は閉じられ、勅使門あるいは御幸門とよばれています。そのことからもわかるように特殊な門で、その後方(北側)には少しクランク型に屈折して石橋のかかった放生池に続いています。天明の大火を免れたと伝えられ、慶長頃の再建と考えられています。 平成十六年(2004)九月二十一日修復落慶法要が営まれ、平成十九年(2007)には京都府指定有形文化財となりました。
玉龍院Gyokuryuin
玉龍院は相国寺第五世雲溪和尚を開祖とします。雲溪和尚は相国寺第四世太清和尚の法弟であり、ともに雪村友梅禅師の法系です。足利義満が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(相国寺第四世住持)を相国寺に迎請するため、その禅室として創設されました。
その後、時代は下だり、白隠下東嶺和尚の法を嗣いだ天真和尚が住し、山門の為に大いに貢献します。ことに天明八年(1788)四月におこった天明の大火の際、本山の執事として在任中であり、開山堂から法堂に通じる廊下を猛火が襲いかかろうとした瞬間に東福寺の使僧と鹿苑寺の使僧洪崖とほか一、二人の助力をかり、廊下の破壊に成功しました。この活動のために、法堂は現在までその景観を残すことができたといえます。その後、天真和尚は当院の再建に尽力し、苦心してその資金を積み立てました。
明治維新後、久しく無住状態に陥り、廃頽の危機に瀕するが、第十三世良谷恵譲和尚が中興となり、寺の再興に力を注ぎます。昭和五年(1930)現在地に移転改築し、大いに旧観をあらためました。
光源院Kogenin
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光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で、応永二十八年(1421)に創建され、広徳軒と称しました。師は二世普明国師に法を嗣ぎ、同年八月十二日入寺、同三十二年(1425)三月十七日示寂。永禄八年(1565)足利義輝が死去してその菩提寺となり、義輝の院号により光源院と改称します。もとの光源院は現今の東にあり、天明の火災を免れますが、明治十八年(1885)その建物を毀ち、同二十九年(1896)善應院に合併し、善應院を廃して光源院と改めました。
因みに善應院は慶長九年(1604)七月、備前候池田輝政が先妣善應院殿を葬り、よってその香火所として創建した所です。
昭和六十三年(1988)には本堂、庫裡を改修し、新粧なった本堂の仏間十二面の襖には日展特選作家、水田慶泉画伯が構想を練って、約半年がかりで描き上げた禅宗寺院にも珍しい干支を配した襖絵が描かれています。
林光院Rinkoin
林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。
応仁の乱後、等持寺の側に移り、その後も移転すること数度、輪番住職のためにその事跡を明らかにすることはできません。元亀(1570~72)の頃、雲叔周悦和尚輪番住職のとき、豊臣秀吉の命により明・韓通行使となって功あり。秀吉はこれに報いるため林光院を独住地とし、また相国寺山内に移設しました。これにより雲叔和尚を中興の祖とします。
慶長五年(1600)関ヶ原の戦いのとき、島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れました。かつてより親交の厚かった大阪の豪商田辺屋今井道與が潜伏先に急行し、困難極まる逃避行を実行して、堺港より乗船させ、海路護送して無事薩摩に帰国させます。
この抜群の功により、薩摩藩秘伝の調薬方の伝授を許されました(現在の田辺製薬の始まりです)。後に道與高齢となり、薩摩まで義弘に会いに行けなくなると、義弘は自ら僧形の像を造り道與に与えます。道與は住吉神社内に松齢院を建築し、その像を祀ります。義弘没後は位牌も添えられますが、松齢院が後に疲弊したとき、道與の嫡孫乾崖梵竺が林光院五世住職となり、義弘の像と位牌が林光院に移され、島津家により遷座供養が修行されました。以降、薩摩藩との関係ができ、現在、林光院墓所に薩摩藩士の墓があり管理しているのはこれによります。
同墓所には徳川家康も、師の礼を執られた大儒教家・藤原惺窩(せいか)の墓もあります。明治七年(1874)疲弊荒廃しついに廃院となるも、大正八年(1919)ときの相国寺派管長・橋本獨山により再興され、師を再中興和尚とします。
現在の建物は、滋賀県蒲生郡日野町西大路村に江戸時代、仁正寺藩市橋家があり、その藩邸(安政年間建立)を買い取り移築されたものです。
○鶯宿梅(おうしゅくばい)
当院の庭園に「鶯宿梅」と呼ばれる名梅があります。いわれは『大鏡』に村上天皇の天暦年間(947~56)御所清涼殿前の梅の木が枯れ、代わる木を求められたところ、紀貫之の娘の屋敷の梅が選ばれ、勅命により御所に移植されました。
ところが、その梅の枝に
勅なればいともかしこし鶯の
宿はととはばいかがこたえん
との歌が書かれた短冊を見て、天皇はその詩情を憐れみ、この梅をもとに返されたといいます。この後、この梅を「鶯宿梅」と称されています。
この紀貫之屋敷跡に林光院が創建され、鶯宿梅が当院の庭木として消長をともにすることになります。数度の移転、廃院など千有余年の間、鶯宿梅も幾回かの代替わりなどを繰り返し、現在にいたるまで、住職の並々ならぬ努力により、今も咲き誇る梅に歴史の重さが感じられます。
うぐいすの春待ち宿の梅がえを
おくるこころは花にぞ有る哉(島津家久)
わが宿にうえんも梅のみにあわぬ
名高き花の根さしおもえば(長淵籐五郎)
など、鶯宿梅を詠まれた歌があります。
普廣院Fukoin
創建当初は乾徳院と呼ばれました。夢窓国師の法を嗣ぎ相国寺第九世となった性眞圓智禅師観中和尚は、足利義満の帰依厚く、山内に退休の地と禅室を与えられ、ここを塔所として創立されました。嘉吉元年(1441)足利六代将軍義教薨じ、普廣院殿と号し、当院を影堂(位牌所)と定め、法号に因んで普廣院と改号しました。
第三世には永楽通宝の字を書いたとされる仲芳中正(中正蔵主)がいます。応仁の乱による被災後、第四世文林永集(慶集)の在生中に「普廣院封境絵図(ほうきょうえず)」(本山に現存)なる再建復興計画図が制作され、永正七年(1510)頃には冷泉家の旧邸地が藤原定家の墓所を併せて冷泉家より寄進されています。つまり当院に墓の管理を委託し、祠堂料に相当する土地を含めて寄付され、寺域は大いに拡張されました。第八世清叔寿泉は冷泉家出身で、普廣院と冷泉家の関係は密接でした。
天明の大火の後、長く復旧が遅れ、嘉永元年(1848)五月に漸く再建、大正九年(1920)に旧鹿苑院跡の現在地に移転して今日に至っています。
養源院Yogenin
開祖を曇仲道芳(どんちゅうどうぼう)といいます。幼くして常光国師・空谷明応に参じ、空谷和尚の相国寺住持に際して焼香侍者を、また結制には問禅の禅客を勤めました。長じて国師の法を嗣ぎますが、座元以上の法階を望まず、終生黒衣で通します。ことに詩文に優れ足利義満、義持父子の寵遇を受けました。やがて、相国寺常徳院内に養源軒を設け、退隠したのが養源院の始まりです。 応永16年(1409)、世寿43歳で示寂。東山百万遍の長生軒を塔所として葬った。長生軒は後に珍蔵軒と改められますが、さらに常徳院内の旧隠居所に倣って、養源院と改名されました。 相国寺79世横川景三(おうせんけいさん)は、曇仲道芳33回忌に東山養源院に於いて香を焚いてその弟子となり、やがて養源院を相国寺内に移転して、その第2世となりました。弘化2年(1845)、現在地に移転し今日に至る。 薬師如来を本尊とし、毘沙門天(鎌倉期)を祀り、近隣の信仰を集めています。
大通院Daitsuin
大通院は、元伏見にあった大光明寺(現在相国寺塔頭)の境内に、伏見宮始祖大通院宮栄仁親王の菩提所として建てられたものです。応永23年(1416)栄仁親王ご逝去の後、当時伏見にあった大光明寺の境内に、親王の謚(おくりな)に因んで「大通院」の名称で寺が創建され、開祖は夢窓国師とされました。
1600年代初めに大光明寺が中興されて相国寺山内に移され、それとともに当院も相国寺に移されます。
安永2年(1773)中興の祖として誠拙周樗和尚(大用国師)が僧堂を開創され、文化元年(1804)に当院は現在地に移り、現在の選佛場(坐禅堂)が落成しました。
喜永4年(1851)大拙承演和尚が、現在の本堂・庫裡を建て、大通院と僧堂の重要な役割をはたすものとしました。明治初年(1868)には大智院も併合し、現在に至ります。
当院は、相国寺修行道場「専門道場」を兼ねています。坐禅堂は四方単の大規模な禅堂であり、日夜雲水(修行僧)が坐禅や托鉢に励んでいる。
大通院(相国寺専門道場)では一般の方のための坐禅会を以下のとおり開催致しております。
京都周辺の方は智勝会へ
東京周辺の方は東京維摩会へ
弁天社Bentensya
開山堂の南西にあり、南面して建つ春日造桟瓦葺の小社で、弁財天を祀っています。
この弁財天は古来から御苑内久邇宮邸にその守護神として奉祠されていたが、明治十三年(1880)に同宮家が東京にご移転された時に、相国寺第126世獨園承珠が同宮二品朝彦親王より御寄進をうけられ、弁天講を組織して広く信仰を集めました。昭和三十二年(1957)にはこのいわれをもとに弁天講が復活されるが、現在活動はしていません。
また現在の建物の建立年代は、細部から十七世紀後半と考えられています。当社は、明治四年(1871)の寺地画図に描かれず、基壇に明治の銘が見られるので移築建物であることが知られています。
平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
洪音楼Koonro
鐘楼(しょうろう)は一名「洪音楼」といいます。天明の火災で焼け、寛政元年(1789)四月古鐘を買って仮楼にかけ、天保十四年(1843)現在の層楼を築成しました。 「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のものです。楼上には梵鐘を吊り、各区画の中にごく多くの陰刻銘があります。順調な気候で災害や戦争がなく、国が豊かで人民の安らかなことなどを願う文句の後に、「干時寛永六己已季卯月七日」とあり、1629年の造立と知られる。 平成十九年(2007)には京都府指定有形文化財となりました。
宗旦稲荷社Sotaninariyashiro
鐘楼の北に祀られている宗旦稲荷。ここには宗旦狐の故事が伝わっています。
江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいました。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578-1658)に姿を変え、時には雲水にまじり坐禅をくみ、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していました。
宗旦になりすましたその狐は、近所の茶人の宅へ赴いては茶を飲み菓子を食い荒らすことがたびたびでしたが、ある時、宗旦狐は相国寺塔頭慈照院の茶室びらきで、点前を披露していました。驚いたことにその点前は実に見事なもので、遅れてきた宗旦はその事に感じ入ったといいます。これも、宗旦の人となりを伝えた逸話です。
その伝承のある「い神室(いしんしつ)」は現在でも慈照院に伝えられています。茶室の窓は、宗旦狐が慌てて突き破って逃げたあとを修理したので、普通のお茶室より大きくなってしまったとのことです。
宗旦狐は店先から油揚げを盗み、追いかけられ井戸に落ちて死んだとも、猟師に撃たれて命を落としたとも伝えられています。化けていたずらをするだけでなく、人々に禅を施し喜ばせていたという宗旦狐の死を悼み、雲水たちは祠をつくり供養しました。それが今でもこの宗旦稲荷として残っています。
この逸話は文献を調べてみると、儒学者として名高い尾張藩士の深田香実が1830年(天保元)に発刊した『喫茶余録』の中に出てき、これが初出だと思われます。
瑞春院Zuisyunin
瑞春院 水琴窟の雅趣漂う『雁の寺』
京都御所の北側に位置する相国寺山内の塔頭瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(タイセイソウイ)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(キセンシュウショウ)が文明年間(1484年)に創設するも、三百余年後の天明年間に寺宇は焼失。弘化から嘉永まで(1845年~1849年)の間に再建され、その後客殿を棄却したが、明治31年(1898年)6月再興完成し、今日の瑞春院にいたる。因みに瑞春院は、亀泉集證、鈴木松年、水上 勉氏など文人墨客ゆかりの禅院でもある。
「本尊」
阿弥陀三尊佛(木像雲上来迎佛 藤原時代)
瑞春院の御本尊は、永享11年(1439年)4月13日第6代足利義教将軍より御頂戴。〔蔭涼軒日録に記載〕御本尊は来迎印を結び踏割蓮華座に立つ阿弥陀如来像を中心に、蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌した勢至菩薩が雲に乗って来迎する姿の阿弥陀三尊像である。
三尊共木造で中尊は水晶製の肉髪珠・白毫を嵌入、両脇侍金属製の宝冠・瓔珞〔玉をつないだ首飾り〕(後補)をつける。構造の詳細は不明。
中尊の温和な面相は定朝様をひくもので小粒の螺髪や、流麗な衣紋の線も、藤原時代中頃であろう。
両脇侍は、中尊より時代は降るようである。あるいは火災等の災害にあって、中尊のみが救い出され、両脇侍を後に補ったのかもしれない。
光背・台座は工芸的で入念な作りであり、江戸時代前期の作と思われる。おそらく、たび重なる災害をこうむりながらも、像本体だけはそのつど救い出され、最終的に現在の荘厳が整えられたのが、江戸時代の初め頃だったのではないだろうか。
法量 |
阿弥陀如来 |
像高 |
35.2センチ |
髪際高 |
32.8センチ |
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観音菩薩 |
像高 |
20.1センチ |
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勢至菩薩 |
像高 |
20.6センチ |
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台座下から光背の上まで68センチ |
久野 健〔文化財保護審議会専門委員〕鑑定
「襖絵」
孔雀 |
今尾景年筆 |
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古松 |
鈴木松年筆 |
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八方睨みの龍 |
梅村景山筆 |
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雁 |
上田萬秋筆 |
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「掛軸」
陶渕明 |
春秋山水図 |
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三幅対 |
狩野探幽筆 |
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鐘馗 |
牡丹 |
竹に虎 |
三幅対 |
狩野安信筆 |
四季掛替 |
福禄寿 |
雪梅 |
月梅 |
三幅対 |
維明周奎筆 |
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朱衣達磨 |
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狩野常信筆 |
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「水上 勉と雁の寺」
直木賞作家 水上 勉氏は9歳の時、瑞春院で得度し13歳まで雛僧時代を禅の修行に過ごしたが、ある日突然寺を出奔。諸所を遍歴し文筆活動に精進。昭和36年(1961年)出版の小説『雁の寺』はベストセラーとなり名声を博した雁の寺の小説は瑞春院時代の襖絵を回顧し、モデルとしたことから瑞春院は別名を『雁の寺』ともいう。今も雁の襖絵八枚が本堂上官の間(雁の間)に当時の儘に残っている。
「庭園」
南庭 雲頂庭
室町期の禅院風の枯山水が、枯淡な趣と公案的な作意で、禅的世界感を象徴している。
北庭 雲泉庭
村岡 正先生(文化功労授賞の庭園研究の権威、文化庁文化保護専門審査員)が相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した池泉観賞式庭園。
「茶室」 久昌庵
数寄屋建築の名工諸富厚士氏の建築で、表千家の不審庵を模して造られた久昌庵。濡額の書は千宗左(而妙斎)直筆。
「書院」 雲泉軒
雲泉軒は直径2メートルからなる台湾檜の千年ものを主材に構築。天井は碁天の中に小碁を組んだ繊細で優雅な作りとなっている。また、書斎の火灯窓より見る柚木灯籠と檜の木立は、一幅の絵のようだと称賛を得ている。尚、襖絵の古松は昔、瑞春院に寄宿していた鈴木松年の秀作である。
「水琴窟」
瑞春院の水琴窟は、三百七十年前に小堀遠州の感化で配下の同心が伏見屋敷の庭に造った洞水門(水琴窟)の手法を取り入れて創作したもので、その玄妙なる音色は聴く人の心を幽玄の世界に誘う。
「大茶碗」
抹茶碗『水琴』は、陶芸家加藤和宏氏(富本憲吉賞、京都美術工芸展優秀賞、その他多数授賞)が茶室久昌庵の外待合の横にある水琴窟(蹲踞)が奏でる地底の玄妙の音色に魅せられ、その音色をイメージに作陶し『水琴』と命名。水琴は直径49センチ重さ7キロ。日本一の伊羅保釉大茶碗で、現在も瑞春院大碗茶席に用いられている。
経蔵Kyozo
経蔵は、天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立されました。第120世盈冲和尚の寄進により、宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきました。しかし、仏舎利が他の堂宇に移された現在は経蔵としてのみ使用され、高麗版一切経(大般若は元時代の普寧版)が納められています。平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
法堂Hatto
法堂
法堂(ハットウ)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のものです。正面28.72m、側面22.80mにして堂々たるものです。
解説
法堂は、無畏堂と称して本来畏れることなく法を説くためのお堂であり、又説法によって衆生が煩悩の苦しみから離れて生き返り蘇生する願も含まれ、講堂的役割を果たしています。また当山は仏殿なきあと、これを兼ねている為本尊を安置して、本堂と称しています。
初建は1391年であり、「法雷堂」と称しました。その後4度の兵火等によって焼失して、現在の建物は天文20年(1551年)の兵火による焼失後、1605年(慶長10年)に徳川家康の命により豊臣秀頼が米1万5千石を寄進して、5度目に再建された建物です。
法堂建築としては最古であり、明治43年に特別保護建造物、昭和4年に旧国宝、昭和25年に文化財保護法によって重要文化財に指定されました。
法堂は基壇「乱積」の上に建てられているので、法堂の姿が一層よくまとめられ、美化され、威厳を増すのに役立っています。高さは22Mとなっております。
構造は桁行7間、梁間6間、単層、1重もこし付,入母屋造り,本瓦葺きの禅宗様建築であり顕著にその様子が至る所にうかがわれます。又、別に桁行4間、梁間1間、1重、切妻造、本瓦葺の玄関廊がついています。
禅宗様の特色
宋代中国の標準的様式にならったもので、鎌倉時代初期に禅宗と共に日本へ伝わりました。また、建築物の規模に対して高さも高く造られます。
屋根
両端でするどく反りあがった軒線です。
貫
柱を互いに貫でつないで補強方式が基本です。
垂木
上の屋根軒下は垂木が全体に放射状に配列した扇垂木になっています。
天井
板を鏡のように平面に並べて張った簡素な天井で「鏡天井」といいます。鎌倉以降禅宗様建築に愛用されました。
柱
円柱の上下を細くまるめた「ちまき」になっていて礎盤(花崗岩)で支えられています。ギリシャのエンタシスと同様に視覚上の安定感を与える為です。
組物(斗きょう)
ます組をより密接にした組物「詰組」になっています。柱間中間にも組物を配列しています。
天蓋(テンガイ)及び幡(バン)
天蓋はもともと屋外で仏の説法が行われた時にもちいた蓋(陽射しや雨を防ぐための傘)から発達したものです。また、幢(幡)は標識なるのぼりばたで、幢ははたぼこ、幡ははたとも言います。幢も幡も蓋とともに仏前の荘厳に用いられ、幡蓋と呼ばれます。仏の教法を幢にたとえて法幢といい、説法することを「法幢をたてる」と言います。
須弥壇(シュミダン)
法堂の中に入ると正面に高い階段を三方にそなえた須弥壇(シュミダン)があります。須弥壇の中央には本尊釈迦如来(シャカニョライ)、脇持は向かって左に阿難尊者(アナンソンジャ)、右に迦葉尊者(カショウソンジャ)の像が祀られています。
天井には、鳴き龍の名で有名な蟠龍図(バンリュウズ)があります。
その他、西の壇には達磨、臨済、百丈、開山夢窓国師、東の壇には、大権修利菩薩、足利義満の像が祀られています。
本尊釈迦如来(シャカニョライ)
像高 110cm
本尊は仏殿に安置しますが、当山の仏殿は応仁の乱で焼失以後はついに再建されることなく今日に至っています。したがって慶長10年(1605)以来法堂と仏殿とを兼ねています。
本像は、脇の迦葉像、阿難像と同じく、鎌倉期彫刻の代表作家、運慶の作と伝えられています。運慶は、父康慶の後をうけ、剛健な写実主義を完成した仏師で、円成寺大日如来、興福寺北円堂の諸尊、東大寺南大門仁王像などがその代表作とされていますが、本像もまた勝れた作例の一つであります。重厚な蓮華台上に結跏跌坐して禅定印を結ぶそのお姿はまことに美しく、また力強さも感じられます。
阿難尊者
阿難尊者木像(アナンソンジャモクゾウ)
像高 126cm
阿難は迦毘羅城の釈迦族の出で、釈尊の従弟でありました。生まれながらにして容姿端正、面は浄満月のごとく、眼は青蓮華のごとく、その身は光浄にして明鏡のごとくなり、とあります。そして十大弟子中、多聞第一といわれました。インドでは一般に学問は書物ではなく、師から弟子へと口伝で伝えるものでありますから、読むとか学ぶというところを「聞く」といいます。だから「多く聞いている」といえば博学多識のことであります。阿難は弟子中一番のインテリであったわけです。
現在のお経も阿難の記憶によってできたとされています。
迦葉尊者
摩訶迦葉尊者木像(マカカショウソンジャモクゾウ)
像高 126cm
摩訶は大の意味。迦葉尊者は、釈迦十大弟子の第一人者として名高く、常に頭陀行(欲を棄てて心身を修練する行)を行じました。がっちりと組み合わせた両手に不屈の願心を示し、口元には強固な意志が、そして、見開いた両眼は教団の上首としてのリーダーシップが見事に表現されています。
蟠龍図
狩野光信筆 径 約9m
禅宗の法堂の天井にはよく龍が画かれています。龍は仏法を守護する空想上の瑞獣でその長を龍王、龍神などと称し、八部衆の一つに数えられています。
慶長十年(1605)相国寺の法堂が五建された際、狩野光信によって画かれた本図は、円相内にその全容をくっきりとえがき出されていて、彩色も実に綺麗に残っています。円相外に雲が画かれていたのですが剥落し、今は僅しか残っていません。日本美術史研究上必要な文献として知られる「本朝画史」の編者、狩野永納(1631~97)は本図を狩野光信(1565~1608)筆としています。無款ではあるがまさしく光信筆であります。
達磨
達磨大師 木像
禅宗の初祖。インドの王族の出身で、釈迦より28代の祖にあたります。梁の普通元年(520)に渡来し、金陵(南京)で梁の武帝と問答し、河南省嵩山少林寺の洞窟で九年面壁をし、二祖慧可に法を伝えました。
臨済・百丈禅師
(左)臨済義玄禅師
達磨大師から数えて11代目の祖師にあたります。 臨済宗の宗祖であり、その言行をまとめたものに『臨済録』がある。
(右)百丈懷海禅師
達磨大師から数えて9代目の祖師にあたります。『百丈清規』により禅宗の規則を制定しました。「一日作さざれば、一日食らわず。」のことばを残したことでも有名です。
開山夢窓国師
夢窓疎石木像
大権修利菩薩
大権修利菩薩木像(だいげんしゅりぼさつ) 室町時代
中国の航海守護神で船中の安全を守護する。阿育王山広利寺で諸堂伽藍の守護神としてまつられて以来、禅寺では伽藍守護神として安置されています。
足利義満
衣冠束帯で公家の正式の服装をしており、関白就任の義満34歳の時の姿といわれています。
解体大修理について
普明国師六百年大遠諱の記念事業として近年破損が激しいことから法堂解体大修理を行いました。平成2年1月1日に着工し、平成7年2月10日に上棟式、平成9年3月31日に完工しました。修理は屋根を半解体修理し瓦葺き替え、天井画・須弥壇彫刻剥落防止のため樹脂加工、須弥壇・位牌壇は漆塗り補修を施し、土間敷き瓦修復敷き直し、壁漆喰塗り替え等を施しました。
浴室Yokushitsu
相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられます。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成十四年(2002)六月に復元修復されました。宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名です。首楞厳経のなかに、十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟ったことが記されています。そのときの跋陀婆羅菩薩の言葉に「妙觸宣明、成仏子住」とあり、宣明とは明らかであり、はっきりとしている言う意味です。この故事にならい禅宗寺院の浴室は宣明と呼ばれ、跋陀婆羅菩薩をお祀りしています。禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行の場であり、浴室は寺院の伝統的な伽藍配置の建物の一つと言うだけでなく、修行の上で「心」と「体」の垢を落とすという意味で、重要な役割を果たしています。この宣明を称せられるのは、皇室、及び将軍家に限られ、足利義満が創建した相国寺の浴室も宣明と称せられました。 平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
方丈Hojo
方丈
禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。
語源
方丈の語源は、一~二世紀頃に成立した大乗経典『維摩経』に登場する俗人維摩居士の居室が一丈四方であったことからできた言葉であり、住職の住まわれる居室を指しました。又、転じて住職自身のことも方丈と呼んだりするようにもなりました。扁額の字は中国の名筆家張即文の筆であり、欅(けやき)の一枚板に彫られています。
裏方丈庭園
前庭は、白砂を敷き詰めただけの単調な造りになっていますが、その効果は法堂の姿を立派に表現するだけでなく、白砂による太陽の反射を利用して室内を明るくするのに役立っています。
部屋は北三室、南三室の六間、『六間』取りで、広さは一畳四方ではなく、表方丈と裏方丈をあわせて168畳あります。
方丈室中
中国普陀落山図 原在中筆
方丈と周りの杉戸絵は皆、原在中によって描かれています。
中国で観音菩薩の霊場とされる「普陀落山」が描かれています。
竹の間
竹図 玉潾筆
維明和尚(第115世)の友人で当時山科に住んでいた、浄土宗の僧玉潾によって描かれました。
梅の間
老梅図 第115世 維明周奎筆
専門の画家ではなく、相国寺第115世維明 周奎によって描かれたものです。維明和尚は若狭の出身で、山内の光源院の住職をしていて、本山の住職となられた方でありますが、若い時から絵が上手であり、京へ出て光源院に住職した頃から、伊藤若冲について画を学んだのです。釈迦三尊像や動植綵絵でも有名な若冲についてみっちり学んだ画は、実に素晴らしいものでした。特に梅を描けば天下第一といわれた程の名手ぶりであり、方丈の十二枚の大襖にも大老梅樹を描き上げました。
御所移しの間
吉野山桜図 土佐派
貴族の絵、御所の清涼殿より拝領した襖絵。山々のまろみ、桜や松のやさしさが見事に表現されています。作者は江戸時代初めに土佐派を復興した土佐光起ともいわれるが、はっきりわかっていません。
琴棋書画の間
琴棋書画図 原在中筆
中国文人の間で士君子の嗜みとされた琴棋書画を画題とした図が描かれています。
聴呼の間
八仙人図 原在中筆
襖絵作者
原在中
又の名を臥遊と号した原派の初祖である。寛延3(1750)年に京都に生まれる。師は江戸中期京都画壇で活躍した狩野派の石田幽汀(1721-1786)と伝えられる。とりわけ、山水花鳥画を得意とし、有職の画に巧みでありその当時右にでるものはなかった。設色のものにいたっては、特に精緻であった。天保8(1837)年没。享年88歳。墓は原家の菩提寺浄土宗天性寺にある。法名は臥遊室楽誉在中到玄居士。
僧玉潾
近江の僧であり、名は正邃といい、墨石堂と号した。僧玉翁の法弟で洛東山科に住した。画を師に学び、墨竹を得意とした。文化11年(1814)示寂。
方丈勅使門
方丈正面の勅使門は一間一戸の四脚門(しきゃくもん)であり、屋根に曲面をなす唐破風(からはふ)を用いています。平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
大光明寺Daikomyoji
大光明寺は相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりであり、皇后の法号大光明院を寺号としました。
皇后は玽子内親王、光厳天皇、景仁親王、光明天皇の母として北朝を良く支えられましたが、正平十二年(1357)、六十五歳をもって薨ぜられました。詠まれた歌も多く、「玉葉集」「新千載集」などに載っています。
皇后の孫にあたる伏見宮祖栄仁(よしひと)親王が薨じ、寺内に葬り安置されて以来、伏見宮家歴代の御位牌をまつる菩提寺となっていました。その後一時疲弊し、慶長年間に火災にあうも、元和元年(1615)に徳川家康により相国寺塔頭として再興されました。
明治三十六年(1903)、塔頭の心華院と当時天明の大火で焼失していた大光明寺、及びすでに廃絶していた常徳院の3ヶ寺が合併され、心華院の寺域伽藍を改めて、寺号も大光明寺として再興されます。常徳院の開祖空谷明応禅師木像は当寺に安置されています。また足利9代将軍義尚(常徳院殿贈大相国一品悦山道治大居士)の塔所でもあります。
歴代住職には西笑承兌(相国寺92世)や、明治の禅匠萩野獨園禅師(相国寺126世・特住1世)、近年では大津櫪堂禅師(相国寺130世・特住5世)がおられます。
長得院Chotokuin
相国寺第十九世佛慧正續国師鄂隠和尚の禅室、塔所であり、はじめは大幢院と号しました。師は絶海和尚に従い参究します。至徳年間(1384~87)明国に遊び、諸山の名宿に歴参すること十余年、帰朝して絶海の法を嗣ぎ、等持寺を経て応永十七年(1410)相国寺に入寺(第十九世)しました。
また、大内義弘の請に応じて周防の瑞雲寺を開き、また阿波の寶冠寺に住し、応永二十四年(1417)天龍寺に入寺、九月五日退山。以後土佐の吸江庵に隠棲してその中興となり、応永三十二年(1425)二月十八日同庵にて遷化されました。同年二月二十七日義量薨じて長得院殿と号し、当院を影堂とし、寺号を長得院と改名します。現在の建物は天明の火災の後、文政三年(1820)庫裡再建、天保五年(1834)旧慈受院よりの金百七十両の助資金によって客殿を再建しました。
庫裏 「香積院」Kuri Kojakuin
禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的です。
方丈と接続しており、香積院と号し、文化四年(1807)の建立と伝わっています。正面向かって左側にある大玄関は、明治十六年(1883)に二世国師の五百年遠忌に際して設けられたもので、それまでは韋駄天(いだてん)を祀る室であったと考えられています。バランスの良い立面を持つ相国寺の庫裏は、五山の大型庫裏の遺構として、歴史にも貴重なものです。
平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。
承天閣美術館Jotenkaku museum
相国寺(正式名称・萬年山相国承天禅寺)は、明徳3年(1392)に夢窓疎石を開山とし、室町幕府第三代将軍足利義満によって創建された臨済宗相国寺派の大本山です。京都五山の第二位に列せられ、絶海中津や横川景三といった五山文学を代表する禅僧や、如拙・周文・雪舟らの日本水墨画の規範を築いた画僧を多く輩出し、地理的にも、文化的にも京都の中心に在り続けてきました。このような600年余の歴史により、中近世の墨蹟・絵画・茶道具を中心に多数の文化財が伝来しています。
去る昭和59年4月、相国寺創建600年記念事業の一環として本山相国寺・鹿苑寺(金閣)・慈照寺(銀閣)・他塔頭寺院に伝わる美術品を受託し、保存及び展示公開、修理、研究調査、禅文化の普及を目的として当館は建設されました。現在では、国宝5点、重要文化財145点を含む多くの優れた文化財が収蔵されており、様々な展観を行っています。
第一展示室には、鹿苑寺境内に建つ金森宗和造と伝えられる「夕佳亭(せっかてい)」を復元、第二展示室には近世京都画壇の奇才、伊藤若冲による水墨画の傑作である重要文化財「鹿苑寺大書院障壁画」の一部を移設しており、古刹の境内の静謐な空間で、間近に作品をご鑑賞いただけます。皆様のご清覧をお待ちしております。
詳しくはこちら
豊光寺Hokoji
相国寺第九十二世西笑承兌和尚が慶長三年(1598)八月、豊臣秀吉逝去の後、その追善のため豊光寺を創立しました。
師は天正十二年(1584)二月十九日、相国寺入寺。慶長十二年(1607)七月、徳川家康は豊光寺を訪問していますが、同年十二月二十七日、西笑和尚示寂。豊光寺は以後、漸次頽廃に及び、天明八年(1788)の大火で焼失し、廃絶の運命にありました。
獨園承珠和尚がこれを嘆かれ、明治十五年(1882)子院冷香軒を合併し、その客殿を移し、同十六年(1883)庫裡、玄関等を新築、さらに十九年(1886)信徒井上五郎兵衛氏の隠宅の寄付をうけ、これを書院とし、若干の基金を備え一カ寺として再建されました。
獨園和尚遷化の後、明治三十二年(1899)四月、参学の有志により「退耕塔」が建てられました。碑文は富岡鉄斎によるものです。また玄関に掲げられた鉄斎による「善隣」と書かれた額からは、人はみな平等であると諭された禅師の心が伝わってきます。獨園和尚の著作「禪林僧寶傳」、遺偈(承天閣美術館預)などが伝来しています。
豊光寺の山門は平唐門で、様式上桃山期か江戸初期のものです。柱が側面の蟇股まで延びており、平安時代からの古い伝統を伝えています。
開山堂庭園Kaizandoteien
開山堂庭園
開山堂はその名のように開山夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところです。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されましたが、又天明八年(1788)天明の大火で焼失します。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったものです。現在は前方の礼堂と、この奥に続く中央の祠堂とから成り、開山堂としての一般的平面をもっています。
正面奥には相国寺開山夢窓国師を安置し、西の壇には仏光国師像、仏国国師像、普明国師像、足利義満像を安置し、東の壇には相国寺有縁の宮家の位牌や像を安置しています。
開山堂の南庭は、手前が白砂敷きの平枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山となっていて、その間を幅五尺ほどの小川が流れていましたが、昭和十年頃に水源が途絶えてしまいました。この流れは上賀茂から南流する御用水『賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流』を取り入れたもので寺ではこれを『龍淵水』と称し、開山堂をでてからの水路を『碧玉構』と称していました。
相国寺開山堂の庭は、厳密にいえば、築山と流れの「山水の庭」と、御影の切石に縁取られた白砂に庭石を配置した「枯山水平庭」の、二様の形態の庭がひとつに同居しているわけで、しかもこの二様の庭が一体となって連繁を保っている面白い形式です。
夢窓国師
像高 114cm
開山堂は「資寿院」と号した初建の時、夢窓国師像が安置されていたのでしょうが、創建当時のものはすでに焼失して今はありません。現在の像はいつ頃のものであるか紀年がないのではっきりは判らぬながら、室町中期を下らぬものであることは否めません。したがって文正元年(1466)までに再建されていた開山堂に安置されたのがこの像でしょう。
本像は、小柄で痩身でありますが、当時切っての博識明敏な国師の人柄を、実によく表現しています。また国師は「夢窓肩」という言葉も生まれたほど、その流れるようなほっそりとした肩が特徴であったといわれ、袈裟が滑りそうなその肩の感じがよくあらわされています。
無学祖元(仏光国師) 木像
像高 93cm
本像は、夢窓国師の法祖父仏光国師無学祖元の木像です。無学祖元は嘉禄2年(1226)中国明州慶元の生まれ。杭州浄慈寺の北かん居簡について得度、時に年十三。弘安2年(1279)北条時宗の請に応じ来朝、8月、鎌倉建長寺へ入る。同5年12月、時宗円覚寺建立、開山となります。同9年9月3日、61歳をもって寂す。さてこの像は、寛文6年(1666)後水尾天皇再建の時、やや遅れて当山第百世汝舟妙恕の寄附により、延宝8年(1680)9月3日に仏師法橋了無の手によって制作されて安置されたもので、天明2年(1782)7月7日に仏師清水隆慶によって補修されており、天明8年の大火の際にも無事に避難したのでした。
高峰顕日(仏国国師) 木像
仏光国師像の左隣りに安置されているのが仏国国師、高峰顕日像です。仏国国師は、開山夢窓国師の嗣法の師であります。
国師は仁治2年(1241)、後嵯峨天皇の皇子として城西の離宮に生まれられました。
弘安2年(1279)暮に世良長楽寺の一翁院豪の仲介により長楽寺において来朝の早々の無学祖元に謁し、以後無学に参じ、同4年9月建長寺において無学より無準師範所伝の法衣を受けました。
嘉元3年鎌倉浄智寺において、仏光国師相伝の法衣を疎石に付し、印可をされました。
嗣法の弟子には、夢窓疎石をはじめ大平妙準、元翁本元、天岸慧広らが輩出し、蘭溪道隆の大覚派と並び、仏光派は高峰によって関東禅林拡大の基礎を作りました。
本像もやはり延宝8年(1680)10月20日、当山第百一世太虚顕霊の寄附により、仏光像と同じく仏師了無に命じて彫刻、円明塔に奉安されました。
春屋妙葩(普明国師) 木像
眞如寺Shinnyoji
鎌倉時代、京都尼五山の一つ景愛寺の住持であった無着如大尼和尚は晩年、嗣法の師、鎌倉円覚寺の開山・佛光国師(無学祖元禅師)の遺爪髪を祀るため、衣笠山山麓に墓所を造り正脈庵(しょうみゃくあん)と号し、終生墓所を守りました。 如大尼和尚遷化後、正脈庵もまた崩壊に瀕していたのを、佛光国師の法孫である夢窓国師が、足利尊氏の執権高師直(こうのもろのう)、尊氏の弟足利直義(ただよし)の外護を亨け、正脈庵の跡地を中心に七堂伽藍をはじめ厖大な寺院を建立し、佛光国師初住の中国浙江省の眞如寺に倣い寺号を眞如寺と号し、佛光国師を勧請開山に、如大尼和尚を勧請開基に請じました。 夢窓国師は第二世として入寺し、室町幕府が制定した五山十刹制度の第三位として夢窓派の外護を亨けて発展したが、応仁の乱などの戦乱によって次第に荒廃していたのを、江戸初期、後水尾(ごみのお)天皇によって再興され、五山派下の西堂(せいとう)職の本庵(ほんなん)として法堂において授帖式(じゅじょうしき)を挙行する道場となりました。
慈照院Jishoin
応永12年(1405)前後、在中禅師(大本山相国寺住持第13世)の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は慈照院と改号されました。義政の法号は「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶大禅定門」で、その事は景徐周麟(けいじょしゅうりん)自筆の「大徳院改号記」に詳しく記されています。墓地は相国寺墓地に有ります。
当院第7世仏性本源国師(昕叔顕啅(きんしゅくけんたく))の時、桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と交渉深く、寛永6年(1629)桂宮は御学問所を当院境内に建てられ、その御学問所は寛永9年(1632)昕叔和尚に下賜せられている。現在の棲碧軒であり、桂離宮内に建てられている古書院と建築方法、建築材が同一の江戸時代初期の草庵風害院造りです。
和尚は織田有楽斎や千少庵、宗旦とも親交があり宗旦により茶室が造られ、「い神室(いしんしつ)」と呼び、落成後も宗旦は度々来て茶の点前をした。故に「宗旦好みの茶室」と称し「宗旦狐」の伝説で知られています。
その後、寛文11年(1671)智仁親王妃常照院殿の御遺命により尾張徳川が現在の本堂を建造して桂宮御霊牌殿とします。宝永4年(1707)東山天皇より宸殿(しんでん)一宇を賜り、宝暦13年(1763)桂宮旧殿を賜いて拡張し、広幡家は玄関を改築しました。
応仁の大乱以後、兵火天災も被らず、漸次拡大され寺運の隆盛をみたのであります。
なお、寺宝としては、重要文化財、灰釉四足壷(平安時代)、絹本著色二十八部衆像(鎌倉時代)、絹本著色地蔵菩薩画像(南北朝時代)、慈照院殿諒闇總簿(室町時代)、紙本墨画牧松筆達磨像(室町時代)、重要美術品数点。皇室縁りの品々、朝鮮通信使書画並びに足利義政公遺品等を伝えています。
慈雲院Jiunin
長禄年間(1457~59)創建、本尊は釋迦牟尼佛。
開祖は、相国寺第四十二世勅諡興宗明教禅師(瑞溪周鳳和尚)です。師は道学兼備の碩匠にして多大の著書があり、天皇の崇敬と幕府の信望とを一身に集めました。第二世黙堂壽昭和尚は、相国寺に伝わる梵唄を校訂し、その音符は今に伝わっています。その中でも、『観音懺法』の聲明は第一であり、誇りとするところです。
江戸期に入り、第九世梅荘顕常和尚(大典禅師)は詩文に長じて一世を風靡し、幕府の信任を受けて、朝鮮修文職として多くの外交文書に携わり、しばし幕議に参与しました。師は天明の大火(1788)に遭った相国寺の復興に尽力し、再建を成し遂げたのです。
また三十三幅からなる「動植綵絵」をはじめ多くの作品を世に残した天才絵師、伊藤若冲の恩師であり、その交際も親密でした。
慈雲院は、当初は現在の京都産業大学附属中・高等学校になっている敷地にありましたが、明治二十九年(1896)に毀却し寺號を富春軒に移しました。
大正期に第十五世琢堂周圭和尚は一日一善を提唱し社会活動を行い、大正六年(1917)「衆善」誌を発刊し、大正十三年(1924)に和敬学園を創立し、現在に至ります。
法然水Hounensui
相国寺創立以前の事、浄土宗の開祖法然上人は加茂明神を尊崇されて功徳院神宮寺に住し、これより加茂社に参詣されました。この神宮寺には美しく澄みわたった庭池があり、法然上人自身歌にその澄澈(ちょうてつ)の様を詠まれています。
後に神宮寺の旧跡に相国寺が建立され池は現在、上人が閼伽水(あかすい)を汲んだといわれる井戸として、記念碑と共に法然水(ほうねんすい)の名で北門前の町に残っています。
法然上人没後は御弟子の勢観房源智上人が、建保年間に師の知恩報恩のため法然上人御影堂を建てられ、知恩寺と称しました。そして幾多の変遷をへて現在の百萬遍の地に遷りました。これが現在の百萬遍知恩寺です。相国寺との縁で感謝の念により毎年開山毎歳忌に招待しています。
法然水は相国寺と百萬遍知恩寺との深き因縁を今に伝える重要な史蹟です。