臨済宗相国寺派

相国寺

境内案内

境内案内 1:総門 2:勅使門 3:天界橋 4:三門礎石 5:玉龍院 6:光源院 7:林光院 8:普廣院 9:養源院 10:仏殿跡 11:大通院 12:弁天社 13:洪音楼 14:宗旦稲荷社 15:瑞春院 16:経蔵 17:後水尾帝歯髪塚 18:法堂 19:鎮守 20:天響楼 21:浴室 22:方丈 23:大光明寺 24:長得院 25:庫裏 26:承天閣美術館 27:豊光寺 28:開山堂庭園 29:眞如寺 30:慈照院 31:慈雲院 32:法然水 境内案内
バーチャルツアーのイメージ
バーチャルツアーを開始する バーチャルツアーを開始する

境内を臨場感あふれる
360度のバーチャルツアーでご紹介いたします。

01 総門 Somon
01

総門Somon

相国寺の門は、総門とそれに並んだ勅使門(ちょくしもん)があります。総門が日常の門であるのに対し、勅使門は特別のときに開けられる門です。創建当時は室町一条にあり、再建は文正元年(1466)三月に落成し、其の十日義政が始めて通行したといわれています。その後、天明の大火などで焼失と再建を繰り返し、現在の建物は寛政九年(1797)第113世梅荘和尚により復興されました。 平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となりました。

02 勅使門 Chokushimon
02

勅使門Chokushimon

禅宗の大寺院には正面に総門と並んでもう一つの門を造る例が多いのですが、この勅使門(ちょくしもん)もそうした一つで、総門の西にこれと並んで立っています。総門が日常の通用門であるのに対して、平常は閉じられ、勅使門あるいは御幸門とよばれています。

もっと見る
03 天界橋 Tenkaikyo
03

天界橋Tenkaikyo

放生池に架かる石橋です。「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目をはたしているところから名づけられました。天文二十年(1551)に相国寺が焼亡した天文の乱はこの橋をはさんで始まっています。現在の橋材はその当時の旧材です。

04

三門礎石Sanmonsoseki

三門(さんもん)跡には数個の礎石が今なお残されており、天明八年(1788)の大火の後再建されていません。

04 三門礎石 Sanmonsoseki
05 玉龍院 Gyokuryuin
05

玉龍院Gyokuryuin

玉龍院は相国寺第五世雲溪和尚を開祖とします。雲溪和尚は相国寺第四世太清和尚の法弟であり、ともに雪村友梅禅師の法系です。足利義満が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(相国寺第四世住持)を相国寺に迎請するため、その禅室として創設されました。

もっと見る
06 光源院 Kogenin
06

光源院Kogenin

光源院は相国寺二十八世元容和尚の塔所で、応永二十八年(1421)に創建され、広徳軒と称しました。師は二世普明国師に法を嗣ぎ、同年八月十二日入寺、同三十二年(1425)三月十七日示寂。永禄八年(1565)足利義輝が死去してその菩提寺となり、義輝の院号により光源院と改称します。
【京の冬の旅 特別公開中】
【Youtube動画公開中】

もっと見る
07 林光院 Rinkoin
07

林光院Rinkoin

林光院は、足利三代将軍義満の第二子、四代将軍義持の弟義嗣(林光院殿亜相考山大居士)が、応永二十五年(1418)一月、二十五歳で早世され、その菩提を弔うため、夢窓国師を勧請開山として京都二条西ノ京、紀貫之の屋敷の旧地に開創されました。

もっと見る
08 普廣院 Fukoin
08

普廣院Fukoin

創建当初は乾徳院と呼ばれました。夢窓国師の法を嗣ぎ相国寺第九世となった性眞圓智禅師観中和尚は、足利義満の帰依厚く、山内に退休の地と禅室を与えられ、ここを塔所として創立されました。嘉吉元年(1441)足利六代将軍義教薨じ、普廣院殿と号し、当院を影堂(位牌所)と定め、法号に因んで普廣院と改号しました。

もっと見る
09

養源院Yogenin

開祖を曇仲道芳(どんちゅうどうぼう)といいます。幼くして常光国師・空谷明応に参じ、空谷和尚の相国寺住持に際して焼香侍者を、また結制には問禅の禅客を勤めました。長じて国師の法を嗣ぎますが、座元以上の法階を望まず、終生黒衣で通します。ことに詩文に優れ足利義満、義持父子の寵遇を受けました。やがて、相国寺常徳院内に養源軒を設け、退隠したのが養源院の始まりです。

もっと見る
09 養源院 Yogenin
10 仏殿跡 Butsudenato
10

仏殿跡Butsudenato

天文20年(1551)の石橋の乱で焼け落ちて以来、再建されず、今や礎石だけが残っています。

11

大通院Daitsuin

大通院は、元伏見にあった大光明寺(現在相国寺塔頭)の境内に、伏見宮始祖大通院宮栄仁親王の菩提所として建てられたものです。応永23年(1416)栄仁親王ご逝去の後、当時伏見にあった大光明寺の境内に、親王の謚(おくりな)に因んで「大通院」の名称で寺が創建され、開祖は夢窓国師とされました。

もっと見る
11 大通院 Daitsuin
12 弁天社 Bentensya
12

弁天社Bentensya

開山堂の南西にあり、南面して建つ春日造桟瓦葺の小社で、弁財天を祀っています。

もっと見る
13 洪音楼 Koonro
13

洪音楼Koonro

鐘楼(しょうろう)は一名「洪音楼」といいます。天明の火災で焼け、寛政元年(1789)四月古鐘を買って仮楼にかけ、天保十四年(1843)現在の層楼を築成しました。 「袴腰付鐘楼」ともいわれ、大型のものでは現在有数のものです。

もっと見る
14 宗旦稲荷社 Sotaninariyashiro
14

宗旦稲荷社Sotaninariyashiro

楼の北に祀られている宗旦稲荷。ここには宗旦狐の故事が伝わっています。江戸時代の初め頃、相国寺境内に一匹の白狐が住んでいました。その狐はしばしば茶人・千宗旦(1578-1658)に姿を変え、時には雲水にまじり坐禅をくみ、また時には寺の和尚と碁を打つなどして人々の前に姿を現していました。

もっと見る
15

瑞春院Zuisyunin

京都御所の北側に位置する相国寺山内の塔頭瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(タイセイソウイ)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(キセンシュウショウ)が文明年間(1484年)に創設するも、三百余年後の天明年間に寺宇は焼失。

もっと見る
15 瑞春院 Zuisyunin
16

経蔵Kyozo

経蔵は、天明の大火によって焼失した宝塔の跡地に万延元年(1860)に建立されました。第120世盈冲和尚の寄進により、宝塔が再興される折に、蔵経置場を兼用することになり、以来経蔵を兼ねた宝塔として機能してきました。

もっと見る
16 経蔵 Kyozo
17 後水尾帝髪歯塚 Gomizunooteihatsushizuka
17

後水尾帝髪歯塚Gomizunooteihatsushizuka

後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)は、承応二年(1653)に、焼失した大塔を再建され、その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、天明八年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚を建てました。

18 法堂 Hatto
18

法堂Hatto

法堂(ハットウ)は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建になり、我が国法堂建築の最古のものです。正面28.72m、側面22.80mにして堂々たるものです。

もっと見る
19 鎮守 Chinju
19

鎮守Chinju

創立当時は今出川通りの北にあって、今の御所八幡町はその旧跡といいます。義満が男山八幡から御神体を奉迎した時は男山八幡から当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたといいます。

20

天響楼Tenkyouro

「天響楼(てんきょうろう)」は、平成二十二年(2011)夏に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼(しょうろう)です。この鐘は、中国開封大相国寺により二つ鋳造され、その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。

20 天響楼 Tenkyouro
21 浴室 Yokushitsu
21

浴室Yokushitsu

相国寺の浴室は宣明(せんみょう)と呼ばれ、1400年頃創建されたとみられます。現在のものは、慶長初年(1596)に再建されたもので、平成十四年(2002)六月に復元修復されました。 宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名です。

もっと見る
22 方丈 Hojo
22

方丈Hojo

禅宗の伽藍の配置は南北に山門、仏殿、法堂、方丈が同一軸線上に並んで建てられているのが特徴です。相国寺も例外でなく、法堂の北側に方丈が建てられています。相国寺方丈は、初建以来幾度も焼失して現在の建物は、天明の大火を経て文化四年(1807)に開山堂、庫裏と共に再建されたものです。造りは一重、入り母屋造り、桟瓦葺き、切妻造りとなっています。桁行25m、梁間16mで、方丈としては大規模な建築で、平成十九年(2007)に京都府指定有形文化財となっています。
もっと見る

23

大光明寺Daikomyoji

大光明寺は相国寺が建立される以前、暦応二年(1339)に後伏見天皇(1288~1336)の皇后、広義門院西園寺寧子が天皇の菩提を弔うため、伏見離宮の傍らに一寺を建立したのが始まりであり、皇后の法号大光明院を寺号としました。

もっと見る
23 大光明寺 Daikomyoji
24 長得院 Chotokuin
24

長得院Chotokuin

相国寺第十九世佛慧正續国師鄂隠和尚の禅室、塔所であり、はじめは大幢院と号しました。師は絶海和尚に従い参究します。至徳年間(1384〜87)明国に遊び、諸山の名宿に歴参すること十余年、帰朝して絶海の法を嗣ぎ、等持寺を経て応永十七年(1410)相国寺に入寺(第十九世)しました。

もっと見る
25 庫裏 「香積院」 Kuri Kojakuin
25

庫裏 「香積院」Kuri Kojakuin

禅院の庫裏(くり)に多い切妻妻入で、大きい破風や壁面が特に印象的です。

もっと見る
26

承天閣美術館Jotenkaku museum

詳しくはこちら
26 承天閣美術館 Jotenkaku museum
27 豊光寺 Hokoji
27

豊光寺Hokoji

相国寺第九十二世西笑承兌和尚が慶長三年(1598)八月、豊臣秀吉逝去の後、その追善のため豊光寺を創立しました。師は天正十二年(1584)二月十九日、相国寺入寺。慶長十二年(1607)七月、徳川家康は豊光寺を訪問していますが、同年十二月二十七日、西笑和尚示寂。豊光寺は以後、漸次頽廃に及び、天明八年(1788)の大火で焼失し、廃絶の運命にありました。

もっと見る
28 開山堂庭園 Kaizandoteien
28

開山堂庭園Kaizandoteien

開山堂はその名のように開山夢窓国師の木像を安置している堂で、法堂の東にあり、境内で最も大切なところです。応仁元年(1467)応仁の乱の兵火で焼失し、寛文六年(1666)後水尾天皇が、皇子桂宮第三世穏仁親王のために再建されましたが、又天明八年(1788)天明の大火で焼失します。現在の建物は江戸時代末期に桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って文化四年(1807)に移築、仏堂として用いられるように増築や一部改造を行なったものです。
もっと見る

29 眞如寺 Shinnyoji
29

眞如寺Shinnyoji

鎌倉時代、京都尼五山の一つ景愛寺の住持であった無着如大尼和尚は晩年、嗣法の師、鎌倉円覚寺の開山・佛光国師(無学祖元禅師)の遺爪髪を祀るため、衣笠山山麓に墓所を造り正脈庵(しょうみゃくあん)と号し、終生墓所を守りました。

もっと見る
30

慈照院Jishoin

応永12年(1405)前後、在中禅師(大本山相国寺住持第13世)の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は慈照院と改号されました。

もっと見る
30 慈照院 Jisyoin
31 慈雲院 Jiunin
31

慈雲院Jiunin

長禄年間創建、本尊は釋迦牟尼佛。開祖は、相国寺第四十二世勅諡興宗明教禅師(瑞溪周鳳和尚)です。師は道学兼備の碩匠にして多大の著書があり、天皇の崇敬と幕府の信望とを一身に集めました。

もっと見る
32 法然水 Hounensui
32

法然水Hounensui

相国寺創立以前の事、浄土宗の開祖法然上人は加茂明神を尊崇されて功徳院神宮寺に住し、これより加茂社に参詣されました。この神宮寺には美しく澄みわたった庭池があり、法然上人自身歌にその澄澈(ちょうてつ)の様を詠まれています。後に神宮寺の旧跡に相国寺が建立され池は現在、上人が閼伽水(あかすい)を汲んだといわれる井戸として、記念碑と共に法然水(ほうねんすい)の名で北門前の町に残っています。

もっと見る