臨済宗相国寺派

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法華観音

法華観音

方丈室中の間にかかっている軸物は観音菩薩で、江戸時代文化年間に江戸の人、遠塵齋(加藤信清1734-1810)によって画かれました。すべて法華経の普門品第二十五、観音経の経文の文字によって画かれています。

遠塵斎 加藤信清

信清の生涯を伝える資料としましては、没後13年目の文政六年に建てられた石碑(杉並区大円寺)や若冲との交流でも知られる相国寺の大典顕常が、五百羅漢図を称揚する目的で「慈雲山龍興寺五百羅漢図記」という一文を草しているのが貴重といえます。
それらによると、信清は享保8年(1734)に江戸にうまれ、文化7年(1810)に77歳で没しています。小字は栄蔵、号は遠塵斎あるいは栖(棲)霞亭。剣術などに秀で、江戸府中で小役人を勤めていました。幼少の頃から絵を好み、狩野派に学んだことも資料に残っています。
確認される作品は代表作とされる五百羅漢図を含め20点に満たないですが、すべてが緻密な文字絵による宗教画です。輪郭は微細な文字を書き連ねて線とし、一見平坦な色面と見える部分まで全て色線で書いた文字を埋めつくしており、それまでの常識を打ち破る制作方法でした。その作画動機は純粋に宗教的なものとされ、夢に啓示を受け陀羅尼で摩訶迦羅天(大黒天)を描いたのが最初であったといわれます。 文字絵の制作に自信を深めた信清は、50幅からなる五百羅漢を画くという大願を発しますが、下級武士の暮らしは貧しく制作費用に困ります。そこで小石川の龍興寺(現在は中野区に移転)の陽國和尚が、完成後は寺に納めるという条件の下に援助を申し出て、信清55歳の天明8年(1788)から寛政4年(1792)まで、5年間をかけて釈迦三尊図を加えた全51幅が完成しました。寛政三年に相国寺の大典禅師が龍興寺を訪れましたが、そのとき30幅余りが完成していました。五百羅漢の完成後、龍興寺は年に数回これを開帳していますが、市中の評判を呼んだことが「東都歳時記」などに見えます。その後この50幅は明治25年に龍興寺から散逸してしまいました。
文字を連ねて像を象る文字絵の起源は古く、日本でも平安時代から鎌倉時代にかけて経文を塔形に書写する文字塔が盛んに制作されています。室町時代になると梵字などを書き連れた線によって尊像を表現する作例も登場し、江戸時代にも受け継がれましたが、多くは輪郭線を主体とするものでした。信清の文字絵はこの伝統の上に華開いたものですが、色面までも文字で埋め尽くす緻密さと、その完成度において孤高の存在といえます。

(参考:矢島新氏研究論文)

法華観音の絵 法華観音の絵 法華観音の絵
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