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相国寺 観音懺法のいわれ
相国寺の梵唄は永享年間(1429-1441)に塔頭慈雲院第2世黙堂寿昭和尚の校訂した音譜が今に伝わっているが、その音譜の中でも「観音懺法」がもっとも特徴的である。
それでは懺法とは何か、どういう儀式なのかということである。私たちは本来生まれながらにして仏性、仏の心を持っているのだが、知らず知らずのうちに限りない罪を犯しているものである。罪とは何かというと、世俗の社会では世俗の法、法律によって、罪を犯したものは裁かれることになるのだが、私たちはそれとは別に心の世界をもっている。つまり自らの心を自ら律するものとして宗教があり、私たち仏教徒にとっての宗教上の法、仏法がある。ここでいう罪とは、わたしたちが日常心の上において犯す罪であり、宗教上の罪である。それは実に多種多様であり、きわめて深重である。それらの罪を悔いあらため、懺悔の力によって仏の心を取り戻そうとするのが、懺法という儀式である。懺法とは懺悔を修する法の意味で、「懺儀」ともいう。
相国寺の観音懺法は、もとは「請観音経」に基づいて出来たもので、正しくは「請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼三昧儀」という。観世音菩薩は大慈大悲を御心とし、抜苦与楽を主とし給えるがゆえに、観世音菩薩に帰命信従して、自己の罪業を懺悔するのである。観世音菩薩を迎えその前で懺悔する儀式作法を、略して観音懺法という。
相国寺における観音懺法は、中国からの来朝僧で鎌倉建長寺、円覚寺、浄智寺および南禅寺などに住した高僧、一山一寧の甥で、一山が来朝した時随従して渡来し、建仁寺、興雲寺などに住した仁恭石梁、それにやはり渡来僧で建長寺、円覚寺、浄智寺、南禅寺などに住した清拙正澄と、わが開山夢窓国師の三大老の協作であることが、「鹿苑日録」によって知られる。夢窓国師から二世春屋妙葩へと伝えられたのである。
足利家では、毎月18日室町第の内仏殿において相国寺の清衆を請して修業せられ、相国寺においては、毎月17日に修され月次懺法とよばれていた。又毎年6月17日三門円通閣の上で修行するのを閣懺法といった。
相国寺の閣懺法は、古来京都の年中行事の一つに数えられ、室町時代の日常語の用字、語釈、語源を示した国語辞典「節用集」にもあらわれている。又この懺法は能「朝長 懺法」にも、旅の僧が朝長の霊を慰めるため懺法を修する場面としてみることができる。
この閣懺法は、天明の大火で三門を焼失して後、約20年間法堂で行っていたのだが、文化5年(1808)より大方丈において勤行するようになり、現在も変わりなく古式にのっとり修行されており、閣懺法と呼んでいる。この儀式のはじめに修せられる『太鼓』と大、中、小の『はつ』による「勧請」は、観世音菩薩をお迎えするための荘厳な前奏曲となっている。
江戸時代には相国寺の大典禅師と親交のあった伊藤若冲が、父母永代の供養を願って釈迦、文殊、普賢の仏画三幅対と、三十幅の動植綵絵を描き、明和七年(1770)十月、相国寺に寄進している。この鳥虫魚貝、花卉草木を描く動植綵絵三十幅は、二幅で一対になるような主題の相似した組み合わせになっており、相国寺で毎年六月十七日に行われる閣懺法に際して、方丈中之間の北壁に釈迦三尊像三幅を掛け、両側の梅の間、竹の間の北壁に、左右対称となるよう、十五幅ずつ懸け列ねたということである。その配列図を図示した「六月十七日閣懺巻軸等配列図」が伝えられたという。若冲独自の奇抜な発想で描かれた生き物たちが、三尊物を中心に、方丈一面に配された中で行われる相国寺の閣懺法は、壮観なものであったことと思われる。残念ながら、動植綵絵三十幅は明治二十二年(1889)宮中に献納されて現在相国寺にはない。当時の管長萩野獨園は財政の危機に瀕した相国寺を立て直すために伊藤若冲の描いた動植綵絵三十幅を宮内省に献じて金壱万円の下賜金を得、それを資金に境内地一万八千坪を買い戻し現在の相国寺の面目を取り戻したのである。獨園の大英断によって、伊藤若冲の不朽の名作は国の内外に流出するという難をも逃れ、現在宮中に宝蔵されている。