臨済宗相国寺派

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相国寺とウィリアム・ウィリス

ウィリアム・ウィリスは1837年北アイルランドでうまれた。大学卒業後、2年程ロンドンの病院で働くが、その後海外赴任を強く希望する。
文久二年(1862)に24歳で英国領事館付医官として来日し、約15年間明治維新前後の激動の時代に滞在した。生麦事件、薩英戦争に直接遭遇した後、戊辰戦争に際しては双方の負傷兵の治療に当たる等活躍した。
相国寺との関わりでは、慶応四年(1868)一月三日に始まった鳥羽伏見の戦いであり、薩摩藩に多くの負傷者が出て、相国寺内の養源院を薩摩病院として収容した時である。当時は日本の医師はまだ外科術に熟練しておらず、重傷者は相次いで斃れる有様で、外科医術の進歩の著しい西洋医に負傷者を治療してもらうことが発案された。
同一月二十日には英国公使パークスに外科医の派遣が要請され、ウィリスが外科医として、通訳サトウとともに見舞として送ることが決定された。
ウィリスは到着後、当時相国寺内の薩摩病院に居た藩医上村泉三、石神良策、山下弘平等を助手として、同病院に収容される傷病患者の救護治療に従事した。頸部に銃創をうけた西郷信吾も、その治療を受けて全癒するなど、療法の革新と治術の巧妙さには驚嘆させられた。九死に一生を得た者も多く、ウィリスはたちまち名声を博したのである。この養源院の薩摩病院での活躍は「元師公爵大山巖」に詳しく記されている。
その後明治政府が設立した東京医学校兼大病院の長に就任している。明治二年(1869)、鹿児島に招かれ、鹿児島医学校兼病院の開設に当り、西南戦争の勃発によって鹿児島を去るまで、鹿児島に近代医学を導入し、その発展に大きな足跡を残した人物である。

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