瑞春院 水琴窟の雅趣漂う『雁の寺』
京都御所の北側に位置する相国寺山内の塔頭瑞春院は、足利義満公が雪村友梅禅師の法嗣太清宗渭(タイセイソウイ)〔相国寺第四世住持〕を相国寺に迎請するため、その禅室として雲頂院を創設。その後雲頂院は兵火で罹災し瑞春軒と併合。瑞春軒は蔭涼軒日録を編集した僧録司の権威、亀泉集證(キセンシュウショウ)が文明年間(1484年)に創設するも、三百余年後の天明年間に寺宇は焼失。弘化から嘉永まで(1845年~1849年)の間に再建され、その後客殿を棄却したが、明治31年(1898年)6月再興完成し、今日の瑞春院にいたる。因みに瑞春院は、亀泉集證、鈴木松年、水上 勉氏など文人墨客ゆかりの禅院でもある
「本尊」
阿弥陀三尊佛(木像雲上来迎佛 藤原時代)
瑞春院の御本尊は、永享11年(1439年)4月13日第6代足利義教将軍より御頂戴。〔蔭涼軒日録に記載〕御本尊は来迎印を結び踏割蓮華座に立つ阿弥陀如来像を中心に、蓮台を捧げ持つ観音菩薩と合掌した勢至菩薩が雲に乗って来迎する姿の阿弥陀三尊像である。
三尊共木造で中尊は水晶製の肉髪珠・白毫を嵌入、両脇侍金属製の宝冠・瓔珞〔玉をつないだ首飾り〕(後補)をつける。構造の詳細は不明。
中尊の温和な面相は定朝様をひくもので小粒の螺髪や、流麗な衣紋の線も、藤原時代中頃であろう。
両脇侍は、中尊より時代は降るようである。あるいは火災等の災害にあって、中尊のみが救い出され、両脇侍を後に補ったのかもしれない。
光背・台座は工芸的で入念な作りであり、江戸時代前期の作と思われる。おそらく、たび重なる災害をこうむりながらも、像本体だけはそのつど救い出され、最終的に現在の荘厳が整えられたのが、江戸時代の初め頃だったのではないだろうか。
法量 |
阿弥陀如来 |
像高 |
35.2センチ |
髪際高 |
32.8センチ |
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観音菩薩 |
像高 |
20.1センチ |
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勢至菩薩 |
像高 |
20.6センチ |
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台座下から光背の上まで68センチ |
久野 健〔文化財保護審議会専門委員〕鑑定
「襖絵」
孔雀 |
今尾景年筆 |
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古松 |
鈴木松年筆 |
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八方睨みの龍 |
梅村景山筆 |
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雁 |
上田萬秋筆 |
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「掛軸」
陶渕明 |
春秋山水図 |
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三幅対 |
狩野探幽筆 |
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鐘馗 |
牡丹 |
竹に虎 |
三幅対 |
狩野安信筆 |
四季掛替 |
福禄寿 |
雪梅 |
月梅 |
三幅対 |
維明周奎筆 |
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朱衣達磨 |
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狩野常信筆 |
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「水上 勉と雁の寺」
直木賞作家 水上 勉氏は9歳の時、瑞春院で得度し13歳まで雛僧時代を禅の修行に過ごしたが、ある日突然寺を出奔。諸所を遍歴し文筆活動に精進。昭和36年(1961年)出版の小説『雁の寺』はベストセラーとなり名声を博した雁の寺の小説は瑞春院時代の襖絵を回顧し、モデルとしたことから瑞春院は別名を『雁の寺』ともいう。今も雁の襖絵八枚が本堂上官の間(雁の間)に当時の儘に残っている。
「庭園」
南庭 雲頂庭
室町期の禅院風の枯山水が、枯淡な趣と公案的な作意で、禅的世界感を象徴している。
北庭 雲泉庭
村岡 正先生(文化功労授賞の庭園研究の権威、文化庁文化保護専門審査員)が相国寺開山、夢窓国師の作風をとりいれ作庭した池泉観賞式庭園。
「茶室」 久昌庵
数寄屋建築の名工諸富厚士氏の建築で、表千家の不審庵を模して造られた久昌庵。濡額の書は千宗左(而妙斎)直筆。
「書院」 雲泉軒
雲泉軒は直径2メートルからなる台湾檜の千年ものを主材に構築。天井は碁天の中に小碁を組んだ繊細で優雅な作りとなっている。また、書斎の火灯窓より見る柚木灯籠と檜の木立は、一幅の絵のようだと称賛を得ている。尚、襖絵の古松は昔、瑞春院に寄宿していた鈴木松年の秀作である。
「水琴窟」
瑞春院の水琴窟は、三百七十年前に小堀遠州の感化で配下の同心が伏見屋敷の庭に造った洞水門(水琴窟)の手法を取り入れて創作したもので、その玄妙なる音色は聴く人の心を幽玄の世界に誘う。
「大茶碗」
抹茶碗『水琴』は、陶芸家加藤和宏氏(富本憲吉賞、京都美術工芸展優秀賞、その他多数授賞)が茶室久昌庵の外待合の横にある水琴窟(蹲踞)が奏でる地底の玄妙の音色に魅せられ、その音色をイメージに作陶し『水琴』と命名。水琴は直径49センチ重さ7キロ。日本一の伊羅保釉大茶碗で、現在も瑞春院大碗茶席に用いられている。